2015年3月27日金曜日

Jim Buss Custom Cues

Jim Buss(私)は1942年11月23日にアイオワ州のブーンで生まれました。私の父は大工作業が好きで、家を改造したり家具などを作ったりしていました。自分の家ばかりでなく、町の家のいくつかも注文仕様でキャビネットを作ったりしました。私は、父の血を引き、共同で大工作業(計画から設計、作業までのすべて)をするのが好きでした。

1961年にアイオワ州立大学に入学し、ビリヤードに出会いました。約1年後にブランズウィックのキューを購入し、自分でインレイを入れて楽しみました。もともと大工作業が好きだったので、ビリヤード場で捨てられたキューを分解したりして、キューの製造工程について独学で知識を増やす努力をしました。自分でもキューを製作しようと設計していくと、私の知っている機械だけ(木工機械)では製作出来ないことがわかってきました。

1966年に大学を卒業すると、McDonnell Aircraft社に電気技師として就職しました。私の最初の仕事は、宇宙遊泳するために宇宙飛行士と宇宙船をつなぐケーブルの設計でした。当時、宇宙飛行は国民の関心が高く、月への到達をロシアと競っていました。私の仕事内容は単純でしたが世の中の関心の高さもあって、自分が宇宙船を設計しているような感覚にとらわれていました。この仕事の担当を終え、次にSkylab programのPower Distribution Systemの設計を担当しました。その後、Air Force Space Systemの担当をしました。Air Force Space Systemの立ち上げのために、カリフォルニア州バンデンバーグ空軍基地に転勤となりました。

私の製作しようと考えているキューには新しいリングが必要でしたので、バンデンバーグに滞在している時にCuemakerのBert Schragerが住んでいたノースハリウッドを訪れリングの製作を依頼したところ、彼は私の要求を受け入れリングを製作することを約束してくれました。さらにBert Schragerは、私を工場案内してくれキューを製作するための多くの機械や組立工程を見せてくれました。この時、いつかは自分もキュー製作を行おうと決意しましたが、実際には10年先となります。
1982年には、McDonnell Douglas社がNASAを支援する契約を持っていました。1982年11月にNASAはスペースシャトル1号機を送り出すことを計画しており、私達はスペースシャトルプログラムに技術援助を行いました。
キューを製作する夢を諦めたわけではありませんでした。ただし、キュー製作に対する知識を得るごとに想像より非常に複雑であることがわかってきました。キューに使用する木材は、重量の変化や内部歪による曲がりを防ぐために密閉し保存しておかなければならないことや、接着剤も正しいタイプを使用する必要があることなどです。さらには、良い材料の供給先の確保です。プロのプレーヤーが、私の製作したキューを喜んで使用してもらえることが、McDonnell Douglas社を退社してキュー製作をビジネスとして成功させるために必要と考えました(実際には9年後となります)。本格的にキューの製作を始めるまでの8年間は、私のキューを気に入って使用してくれた地方の選手と協力して、より複雑な設計でキューを開発していきました。
1994年7月に、私はAmerican Cuemaker’s Associationの社長に選任されました。1997年8月に私はセントルイスに戻りました。McDonnell Douglas社(今のBoeing社)の先輩が、私に大きな仕事を持ってきたので行ってほしいと申し入れされました。一度はキュー製作のビジネスがあるので断りましたが、先輩が私が断りようのない良い条件を提示したところで申し入れを受けることにしました。
現在ウイークデーはBoeing社の仕事をして、休日はキューの製作を行っています。私は大好きな2つの仕事を持つことが出来て満足しています。1997年10月に2つの仕事がいそがしいため、ACAの社長を辞任しました。1998年6月にACAの重役に選任されました。
私は2年以内にはBoeing社の仕事をやめて、もう一度キュー製作を本業としていくことを検討しています。

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